デカブリストの乱の失敗は、反乱主体である北方結社と南方結社が相互に連絡を取ることなく、アレクサンドル1世の急逝と、その後の2週間に渡る皇帝不在を機会的に捉え、長期的展望の欠如したまま反乱に突入したことと、大衆に対するデモンストレーションの欠如、クーデター実行者としての決断と実行に欠けていたことなどに起因する。結局、乱後、ニコライ1世は皇帝官房第三部を新設するなどして専制権力を強化し反動政治を推進した。その一方でニコライは、失脚していたスペランスキーを登用して法典編纂事業の再開に当たらせるなど、国制整備に繋がることにもなった。
デカブリストの中にはシベリアなどの流刑地で教育や研究に励む者もいた。彼らは詩作や民俗研究で大きな成果を上げている。アレクサンドル・ゲルツェンは、彼が出版した定期刊行物『北極星』の表紙に処刑されたデカブリストの肖像を掲げた。プーシキンやニコライ・ネクラーソフは詩作にあたってデカブリストをテーマに取り上げた。レフ・トルストイは、デカブリストの自由主義的思潮を取り上げ、後に『戦争と平和』へと繋がっていった。
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デカブリストの乱は、ロシアにおける自由主義的革命運動の第一歩として、その後の革命運動の契機とされている。
こうした自由主義的革命運動は、ロシアでは頓挫したが、ナポレオン戦争によってヨーロッパ諸国へ輸出されたことを意味するものであった。