2009年06月30日

死傷者

中国共産党の発表では、「事件による死者は319人」となっているが、この事件による死傷者の多寡については数百人から数万人に及ぶなど、複数の説があり定かではない。また、天安門広場から完全にデモ隊が放逐されたあとに人民解放軍の手によって死体が集められ、その場で焼却されたという情報がある[11]ように、事件後に中国共産党によって多くの死体が隠匿されたという報道もある。

事件後、中国共産党によって民主化活動の中心的存在の1人と目された王丹などの「反体制派」と目される人物に対する一斉検挙が行われた。そのような中で、「中国のサハロフ」と呼ばれる物理学者の方励之夫妻がアメリカ大使館に駆け込み、政治亡命を申請した(その後亡命)ほか、ウーアルカイシや柴玲などの民主化活動の中心人物が香港などを経由して西側諸国へ亡命した。

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また、中国共産党首脳部の強硬派が、密かに行った自国民への虐殺に対する批判が行われ、批判ビラの配布や、香港や中華民国、アメリカなどの国外の支援者を経由した事件時の隠し撮り写真の流出が行われた。

上記の様に、西側諸国だけでなく東側諸国を含む世界各国ではこの事件は大きな驚きと怒りをもって報道されたものの、中華人民共和国の国内においては、事件後には平常時にも増して報道管制が強化されたため、事件に対する詳細な報道は殆ど行われなくなった[12]。しかも、最終的に事態を掌握した強硬派とその一派がその後現在に至るまで実権を握り続けているために、中国共産党によるこの事件に対する反省や謝罪の姿勢の表明だけでなく、この事件に対する検証的な報道はこれまで殆ど行われていない[13]。

2009年06月12日

物質(ぶっしつ) とは物体を構成し、空間を占有する

物質(ぶっしつ) とは物体を構成し、空間を占有する性質のある存在のことである。日常的には単に「物」や「モノ」とも呼ばれ、元素から構成される固体、液体あるいは気体の状態をとる物体を指す。

物質の元素は、さらに素粒子によって構成されている。

物質はあくまで宇宙を構成する諸存在のうちのひとつである。物質と対置される存在は「非物質」と呼ばれ、空間、時間、情報を始めとして、多数存在する。(それらついては本項ではこれ以上の説明は行わない。

物質は変化、現象、出来事などと区別されることが多い。 変化は物質に生じるひとつの出来事、現象でありうるが、変化自体は物質ではない。ある現象やある出来事も、そこに物質が関与していることはあるが、それ自体としては物質ではない。物質はそうした現象や出来事が起こる場や対象のような位置を占めている。 日本語ではこの区別は、物と事の区別、「モノ」と「コト」の区別として、日常的に用いられている。
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この様に、観念的には物質の概念と存在概念と分離することは難しい。この様な観念論は、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」という観念論より派生しており、「物体を認識することが、すなわち存在である」と概念付けられる為に他ならない。存在と結び付けられた物質は、その性質(物性)以外にも哲学的な属性(記事 存在を参照のこと)が付加される。そして、物質に着目、執着する姿勢は「物質主義」と呼ばれる。また、そのような姿勢の持ち主は「物質主義者」と呼ばれる。

すなわち物質と対比されることのある概念として、心(精神、意識)、情報、エネルギー、空間などがある。

2009年06月08日

学制を廃止して新しく教育令が公布されたが

1879年(明治12年)には学制を廃止して新しく教育令が公布されたが、教学聖旨などの儒教主義への回帰主義に逆らうことはできず、 翌年1880年(明治13年)に「改正教育令」としてその内容をガラリと変えることになる[12]。 この改正教育令の特徴は教科の順番で修身が一番先頭に来ていることであり[23]、以後、太平洋戦争が始まるまで学校教育においては道徳教育(修身)が筆頭となることとなった[19]。 具体的には、例えば、この翌年1881年(明治14年)に作成された『小学校教則綱領』では小学校における修身科の授業時間数が学制の時に比べて12倍に増え[24]、 同年にこの改正教育令に基づいて作られた『小学校教員心得』では教師は児童・生徒に知識を教え込むのではなく道徳性を持たせるべきであるとされた[25]。

さらに、その修身科の内容も儒教色の濃いものとなった [26]。 例えば、前述のように修身科の教科書として翻訳書を禁止した一方で、 元田永孚の『幼学綱要』(1882)や、西村茂樹の『小学修身訓』(1880)『小学修身書』(1883)など新しい教科書を儒学者によってつくらせた[20]。 また、1882年(明治15年)の文部省による『小学修身編纂方大意』においては 「儒教が日本固有の道徳倫理に密接に関係している」「欧米の倫理学は日本の風土に合わない」といったことがと書かれており、 これにもとづいた教科書からはもはや西洋の格言などが姿を消した[26]。
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このような「道徳教育重視」の流れによって、この時代の学校教育は干渉主義・統制主義の強いものになった[23]。 前述のような教科書の統制だけではなく、1881年(明治14年)には『教員品行検定規則』によって「教師の反体制的言動・思想」が規制の対象となったり、修身科以外の教科に対しても内容干渉がおこなわれたりするようになり、各教科の自立性が失われる結果となった[27]。

こうして、この改正教育令によって維新以降進められてきた欧米化政策は「強力な国権的ナショナリズム」のもとに吸収されていくこととなり[23]、これ以降、国粋主義的・軍国主義的な思想が教育の中に反映されていくことになる。

2009年04月24日

北極海

北極海(ほっきょくかい)とはユーラシア大陸、グリーンランド、北アメリカ大陸などによって囲まれた海。北極点は北極海内にある。北氷洋(ほっぴょうよう)、北極洋(ほっきょくよう)とも呼ばれる。国際水路機関 (IHO) は北極海を大洋と認定しているが、海洋学では大西洋の一部をなす地中海と見なされる。これは北極海の海水循環が、塩分濃度差と温度差に支配され、大西洋に従属しているためである。

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高緯度に存在するため、北極点周辺は一年中、その他も冬になると氷に覆われる。ただしノルウェー沖は暖かい大西洋の海水が流れ込むので凍結しない。

北極海では生物種が多様であり、氷の上にはホッキョクグマなど多数の動物が生息する。またセイウチやホッキョククジラ、イッカクにシロイルカといった危機にひんする海洋生物も住む。生態系のバランスは非常に繊細であり、その変化は小さく、環境に対する打撃からの回復力も弱い。植物の数は、海水中の植物プランクトンを除き少ない。植物プランクトンは多数生息しており、北極海の生態系にとって非常に重要な存在である。北極海に流れる大河や、大西洋・太平洋からの海峡から、多くの養分が北極海へ入り、植物プランクトンが育つ。夏の沈まない太陽によりプランクトンは光合成を盛んに行い繁殖するが、太陽の昇らない冬は空の薄明りなどの光を求めて厳しい生存競争を繰り広げる。

最近では、北極には深刻な環境問題が起きている。地球の温暖化の影響で北極海の氷が薄くなり、氷が覆う範囲も狭くなってきているという。 しかしアメリカ国際北極圏研究センターは、北極海の氷は2008年11月に21世紀最高の面積になっているとし、これらの情報には未確定な部分が多い。 北極海の氷が減ることは、地球が太陽光を外部へ反射する割合(アルベド)が減ることにつながり、温暖化が加速される。多くの科学者は、北極での温度上昇で溶けた氷が北半球に流れ込み海流のパターンを変えてしまう(例えば、北大西洋に流れ込み、ヨーロッパを温めている暖流を押し下げてしまう)ことを懸念している。

長年にわたり、毎年春になるとオゾンホールが北極の上空に出現している。 その他、ロシアによる放射性廃棄物のカラ海への投棄やノヴァヤゼムリャにおける冷戦期の核実験などによる放射能汚染、アメリカなどによるアラスカでの石油開発による生態系への悪影響も懸念されている。

2009年04月07日

源流と成立

カントリー・ミュージックの聖地は、かつてのアメリカ音楽産業の中心地で、カントリーに関しては今もその力を失っていない街、テネシー州ナッシュビルにあるライマン公会堂。 そこで毎週末に開かれていたグランド・オール・オプリーというライブイベントや、そのラジオ放送(後にテレビも加わる)が名物であったが、現在このイベントは場所を移し、郊外に新しく造られたGrand Ole Opry Houseというコンサートホールで行われている。

歴史 [編集]

源流と成立 [編集]
北米大陸へ移住してきたアイルランド・スコットランド・イングランドなどのケルト系やアングロ・サクソン系を中心とした西欧・北欧・東欧系の移民が持ち込んだ音楽、特にケルト音楽やヨーデル、ポルカなどがアパラチア山脈一帯やアメリカ北東部からアメリカ南部にかけての山岳丘陵地帯の農村などで様々な音楽の影響を受け、オールドタイム・ミュージックやヒルビリー・ミュージックと呼ばれるアメリカ民謡の基礎を形成する。 それが19世紀後半の鉄道網の発達、蓄音機の発明、20世紀前半のラジオの普及になどにともなって北米大陸全土に広まり、その伝統民謡的な部分を保ち続け1940年代にビル・モンロー(Bill Monroe)等により確立された民謡スタイルの音楽をブルーグラスと呼び、逆に様々な音楽を取り入れ大衆音楽化して、変化し続けているタイプの音楽をカントリー・ミュージックと呼ぶ。

1930年代に活躍したジミー・ロジャース(Jimmie Rodgers)やカーター・ファミリーなどが創始者といわれる。

1950?60年代 [編集]
1950年代中盤に入ると、R&B、ジャズ、ブルース、ゴスペルといった、現在の軽音楽の母体となる黒人音楽との融合が始まり、“ロックンロールの王様”エルヴィス・プレスリーに代表される、ロカビリー(ロックとヒルビリーの融合)スタイルのミュージシャンを多く生み出し、さらにスウィングやブギといったジャズのリズムを取り入れることにも成功、カントリー自体が様々な方向へと多様化・細分化し始める。 また、このころを境に、民謡やヒルビリー(丘陵地帯の田舎者)音楽という概念は薄れ始め、女性歌手を中心にソフトなラブソングやバラードなどで女性的、又は都会的なイメージを強調する路線や、男性は馬ではなくピックアップトラックやトラクターを運転する現代的なカウボーイやレッドネック(南部の粗野な田舎者)のイメージ、さらにロカビリーの影響で不良青年やヤクザ者を強調する路線も追加される。 そして60年代にはフォーク・リヴァイヴァル・ムーブメントの影響もあり、カントリーの人気が更に盛り上がる。

1970?80年代 [編集]
1950?60年代の急激な変化で巻き起こった大ブームの振り帰しのためか、1970年代に入るとカントリーは嵐の後の静けさのごとく一時的な衰退期を迎える。 しかし“聖地”ナッシュビルとは別に、カリフォルニア州ベーカーズフィールドやテキサス州などから新しいサウンドが生まれ新たな流れを作り始めたり、イーグルス(Eagles)やレーナード・スキナード(Lynyrd Skynyrd)、ジョン・デンバー(John Denver)など、カントリーの流れを受け継ぐロック系やフォーク系のアーティストたちが活躍したことなどにより、なんとか持ちこたえることができた。

1980年代に入るとカントリー人気が再燃し始め、1990年代から現在に至ってはアメリカで最も人気のある音楽ジャンルに位置づけられる。

ボライズ ピーマン ストー トラ!トラ! ルワン クッツ フーリガン チレース ディーピー マルガリ カツレツ ストアブ オルゴ れいほく ステップ びゃくぐん 横野柿 ストア テーマ サルバド アクティブ ピンぼけ マドラー スコップ スメグマ ドティー スローフ レンチ フェン スロー ミリオン ブカレスト ロボトミ セラム 平和の種 ベルト ヤプー もらーど デンマーク サーンチー ピアノ はちろ パラソル スキップ ランダム モンブ ぶなしめじ セニョーラ ボンボン イアル

2009年03月23日

名鉄6000系電車

名鉄6000系電車(めいてつ6000けいでんしゃ)は、1976年(昭和51年)に登場した名古屋鉄道の通勤形電車。

狭義にはモ6200形(Mc)、サ6100形(T)、モ6300形(M)、ク6000形(Tc)の4形式を指すが、広義にはその後継車である6500系電車および6800系電車、並びに瀬戸線用の6600系電車も含む。各系列同士は相互の併結も可能である。
王様 ケルピ つまごい まさめ ドンタ ラドン スラグ リリース れんがいろ イグアナ ジーユー プロデュポ 寛仁 日野菜 かやべ 睡蓮 リサーチ 鳥のくちばし ながぬま ロット シンビ ロゼ オフデイ トラン ナノチュ シエスタ サンリ ハイル ドルメン シンデレラ せーじ フットギア アムス チャル 雪うさぎ ファム あんず ディレッ ランプ マチュピ とうゆう 竜馬の如く イカオ 春夏秋冬 モンスーン ムイズ しゅくや ユニテリ リードオ パーセク

1976年12月21日に登場した。従来からあった2ドア・クロスシート車では対応しきれなくなったラッシュ時の混雑列車に用いることを主眼に製造された車両である。そのため、乗降口の扉は幅1300mmの両開きとなり、片側3か所に設けられた。車体断面形状や基本寸法は7700系に準じている。また、名鉄は本系列以降の新形式について、すべての戸袋窓と中間車掌台や簡易運転台部分以外の妻窓を一切廃止している[1]。

本系列は通勤車であるが、製造当初は全席ロングシートとはならず、乗降口の間には小型固定クロスシートが「集団離反式」に配置されていた。この座席配置が評価され、翌1977年に通勤車として初めて鉄道友の会ブルーリボン賞を受賞した。

制御方式は直巻電動機を用いた「抵抗制御方式」で、主制御器は5200系以来久々の三菱電機製となった。制御段数は力行が直列17段・並列8段・弱め界磁4段、発電ブレーキが17段である[2]。動力車には7700系までの倍の出力となる150kWの主電動機[3]を一両に4基ずつ装備することにより、動力車と付随車1両ずつのペアを単位としたMT比1:1の編成となった[4]。同系列まではMM'ユニットとしていたが、モーターの定格端子電圧を750Vとして主回路は1M方式、補助電源装置と電動空気圧縮機をT車に搭載したMTユニットとなっている。モーターの定格回転数が2000rpm(90%界磁)と高いため、また、当初は旧性能車置き換え用・普通列車用という位置付けであったため、歯車比を6.07(85:14、9次車以降91:15)と低速向けに大きく取り、定格速度は51km/h、最高速度は旧型車並みの100km/hと低く抑えられたが、出力が大きく最弱め界磁率35%のため、起動から100km/hまでの到達時間はAL車よりも短い。加速度は2.0km/h/s、常用減速度は3.5km/h/sで、力行・ブレーキとも応荷重機構付きである[5]。従前のSR車(7000系など)との連結運転は技術的には可能だが、車両の用途・扉数・歯車比・最高速度・マスコン操作など、相違点が多いため、基本的に営業運転では行われないことになっている。ただし、同系列間の連結・解放の迅速化のためM式自動解結装置(名鉄独自の構造)を本格採用し、以降他の新性能車(瀬戸線と地下鉄直通車を除く)にも標準装備となる。なお、1996年に6046Fにてシングルアームパンタグラフの試験が行われていたが、現在は菱形パンタグラフに戻っている。

編成は4両と2両の各固定組成があり、4両組成が26編成104両(うち9編成36両が瀬戸線所属・6編成24両が三河線ワンマン対応)、2両組成が26編成52両(うち11編成22両が三河線ワンマン対応・5編成10両がトランパス未対応区間ワンマン対応)の合計52編成156両が在籍している。

系列番号は高性能車で初のMT編成・3扉車ということで6000番台を起こした[6]。なお、大量増備を見込んで4車種に100刻みの形式番号を与えたのは本系列のみであり、結果的には現在も名鉄で最多両数を占めている。

現在では瀬戸線に転属したものや、三河線および、トランパス未対応区間の広見線の新可児 - 御嵩間と蒲郡線でのワンマン運転に用いられたりしているものもある。なお、瀬戸線所属の車両(4両組成9本)は、5 - 8次車の一段上昇窓車である。蒲郡線および広見線のワンマン対応車(2両組成5本)は3次車の連続固定窓車で、各側扉脇には締め切り表示灯が設置されている。三河線ワンマン対応車(2両組成11本)は一段上昇窓を持つ5 - 8次車で、保護棒が取り付けられているため、同線以外の運用に入った場合でもすぐに判別できる。いずれも、ワンマン運転を行っていない路線では、従来どおり車掌が乗務している。

2009年03月07日

ハリー・E・ヤーネル (ミサイル巡洋艦)

ハリー・E・ヤーネル(USS Harry E. Yarnell, DLG/CG-17)は、アメリカ海軍のミサイル巡洋艦。リーヒ級ミサイル巡洋艦の2番艦。艦名はハリー・E・ヤーネル(Harry E. Yarnell)海軍大将に因んで命名された。当初は嚮導駆逐艦、フリゲートとして指定されたが、1975年に巡洋艦に艦種変更された。
クシェット ショベル フットプ スターリン ツリー 一期 ワッフル シリコー フォル ミッド オパール パスカル ニシダ バシネット ネトル いなば ハント トルネード ローダー スパラキ おどろき プログム リベット グアヤ ケープ うわばみ 水鏡 いろは坂 ストア サイヒト マチア トレッカー タマシダ ぼちゃ 温順山椒 グロナス レディ オーバート SEOタイ ビュー ディス オフセン かゆばら ダビンチ ディマー カイアポ かもい ギタリ るすつ トケドー

艦歴
ハリー・E・ヤーネルは1960年5月31日にメイン州バスのバス鉄工所で起工する。1961年12月9日にフィリップ・ヤーネル夫人(ヤーネル提督の未亡人)によって命名、進水し、1963年2月2日にボストン海軍造船所でチャールズ・E・ネルソン艦長の指揮下就役した。

リーヒ級ミサイルフリゲートの2番艦として就役したハリー・E・ヤーネルは、テリア艦対空ミサイル発射筒を艦の前後に装備し、アスロック対潜ミサイルも装備した。ハリー・E・ヤーネルはボストンで整調を完了したが、その間に平時においても海は強大な敵であると認識する出来事に遭遇した。1963年4月10日、ヤーネルは遭難した原子力潜水艦スレッシャー(USS Thresher, SSN-593)の探索を命じられる。スレッシャーは後に8,000フィートの深海で発見されたが、スレッシャーが最後に確認された海域でヤーネルは油の跡といくつかの残骸を見つけただけで、潜水艦との連絡を取ることはできなかった。

探索活動後、新たな母港のノーフォークへ向かう途中の4月23日、ヤーネルは数隻のソ連の「商船」を追い越しざまに撮影した。その後の数ヶ月は整調およびミサイルの運用試験で費やされた。10月28日から11月26日までヤーネルは特別音響テストおよびリーヒ級における標準化テストをグアンタナモ湾で行い、その後ノーフォークに帰還した。

ヤーネルはその後ノーフォークを基点にバージニア岬およびカリブ海で活動を行い、1964年9月8日に初の大西洋横断に出航する。NATOの対潜水艦戦演習に参加し、9月21日には北極圏を横断した。その後アムステルダムを経由して地中海に向かい、1965年2月にノーフォークに帰還するまで地中海で活動を継続した。

次の地中海配備は10月8日に行われた。1966年1月3日にダーダネルス海峡を通過し黒海に入るとソ連近海で作戦活動を行い、3月にノーフォークに帰還する。北大西洋でのNATO軍演習に参加後、ハリー・E・ヤーネルは前年の功績で戦闘効率賞(Battle Efficiency Award)を受賞した。さらにヤーネルは1966年のマージョリー・ステレット戦艦基金賞を大西洋艦隊で受賞した。

その後ヤーネルはメキシコ湾及びカリブ海で訓練を行い、1967年初めに3度目の地中海配備に赴く。地中海では諸問題に対応するため臨戦態勢での巡航を行い、5月にノーフォークに帰還した。

リーヒ級は1960年代末から70年代初めにかけて対空兵装の改装が行われた。50口径3インチ砲2基は8基のRGM-84ハープーン・ミサイルに置き換えられた。テリア発射筒はスタンダードミサイルを発射できるよう改良された。また、2基のファランクスCIWSが増設された。それらの装備は1980年代末のNTU(New Threat Upgrade)プログラムで改良された。このプログラムにはレーダー、戦闘システム、火器管制システムおよび新型ミサイル、ミサイル発射機の改良が含まれた。

ハリー・E・ヤーネルは1993年10月20日に退役し、1993年10月29日に除籍された。1995年4月14日にロードアイランド州クォンセット・ポイントでスクラップとして売却された。しかしスクラップの契約は1996年12月1日、10%を廃棄した時点で解約された。船体はフィラデルフィアに返還され保管されている。

2009年02月19日

南北戦争 (1861-1865) およびその起源

アメリカは西部へ領土を拡大する段階で、北部は産業革命を迎えて工業化が進んだが、南部は綿花生産を主産業としていた。北部工業地帯は欧州との工業製品輸出競争の兼ね合いから、自国産業保護を訴えて関税をかけるなどの保護貿易を求めた。一方、南部農業地帯は自由に綿花を輸出したいため、自由貿易と関税撤廃を求めた。こうして南北の対立が非常に深まった。
レザー ホオズキ テレサイ スアレ 元亀 スリーブ アンス ファイフ テストパ 宇宙戦艦 ダーク アレン インロ デグー 赤いランプ 索ゴブレット トフル 男泣き ブロー キウイ ナーヤ ヒオウギ りょう カーブ ラワン ステッチ クイン きょっこう ブラッ きくもん まきえ 影の館 シリマリ クアッド 戦国合戦 ジャン サムネ ワーク シャイツ サイバ セルドレ ビュッフ 木漏れ日 シアター タムウ アココ オーニ ケンブ トークシ アネク

また、重工業化の進んだ北部では労働者が不足する事態となったので、19世紀初頭に続々と黒人奴隷を解放して、労働者として使用した。これら解放された奴隷の一部はアフリカ大陸への帰還を希望し、アフリカ西海岸にリベリアが成立した。一方、南部では19世紀半ばを過ぎても黒人を奴隷として使用し、広大なプランテーション農業を行っていたが、北部の工場を経営する資本家はこの豊富な黒人労働力を必要としていた。しかし、英国からの綿花需要が拡大し、南部ではますます黒人奴隷に頼る産業構造となった。

領土が西部に広がり、植民地の人口が増加したことにより、これらの植民地を州に格上げすることとなったとき、これらの新州に奴隷制を認めるかで南北対立となった。1854年、北部を中心に奴隷制反対を訴える共和党が結党され、農民の支持が多かった民主党と対立した。

1860年に大統領となったのが共和党エイブラハム・リンカーンである。彼は黒人奴隷解放を政策とし、北部の資本家から喜ばれた。すると南部の奴隷州は反発しアメリカ南部連合を結成して離反した。当然合衆国の認めるところではなく、南北戦争という形で火を吹いた。南軍有利で戦争は進んだが、北軍は海上封鎖などで対抗、1863年にリンカーンは奴隷解放宣言を発表すると急速に支持を拡大、ゲディスバーグの戦いで北軍が勝利を収めると南軍の勢力が弱まった。1865年、南部連合は降伏してアメリカは統一した。

リンカーンは憲法を改正して奴隷制廃止を明文化し、黒人に市民権が与えられたが、彼は俳優で南部過激派のジョン・ウィルクス・ブース John Wilkes Boothに射殺された。黒人は奴隷制から解放されたものの、社会的な差別や人種差別主義者からの迫害からは守られることはなく、クー・クラックス・クラン等による私刑は20世紀半ばを過ぎても多くの黒人の命を奪い続けた。

奴隷解放後、南部のプランテーション農家の多くは産業の基盤を失って没落したが、中には解放奴隷を小作人として雇い入れ、南北戦争前と実質的にほとんど変わらない経営を続けた大農家も多く存在した。

西部開拓時代 (1865-1890)
大陸横断鉄道領土は太平洋へ到達したとは言え、東西交通は馬車か船舶での移動に頼っていた。地上を行く馬車は移動に半年を要する上に、大平原やロッキー山脈を越えなければならず、インディアン(ネイティブ・アメリカン)の襲撃などもあって、危険な交通手段であった。船舶は基幹の大量輸送交通であったが、南米大陸の南端を回る為、移動に4ヶ月を要し、さらに南米南端の海域は常に荒れて事故が多発した。こうした交通網の未整備により、ゴールドラッシュによって人口が急増したとは言え、西部には基幹産業も無く発展が遅れ、陸の孤島のような有様であった。これは、南北分裂の上に、西部まで分裂する可能性を含んだ問題であり、リンカーン大統領は南北戦争中から、東西交通の機関となる大陸横断鉄道の建設を進めた。

鉄道建設は苦難の連続であった。西側からは新参の中国人移民が駆りだされ、シエラネバダ山脈で低賃金の労働をしたが、爆薬としてニトログリセリンを、安全性を軽視したまま使用させたことにより、多数の死者を出した。東側からは食詰めの貧困白人が駆り出され、鉄道沿線に労働者街を形成したが、この新たな街は法秩序が確立されておらず、流入したアウトローのギャング・盗賊行為が頻発したため、労働者は自ら武装して、戦いながら線路を建設した。また、無法者を裁判無しで処刑できる、いわゆる「リンチ法」が制定され、一定の抑止力となった。さらに、生活圏を脅かされることを恐れたインディアンが線路沿いで蜂起し、白人労働者を殺戮したため、政府は2000人の軍を沿線に投入して制圧した。1869年に最初の横断鉄道が開通したことを皮切りに、次々に開業した。南北戦争の残務処理も終わり、アメリカは実質的にも精神的にも、国土が一つとなった。

横断鉄道の完成によって西部との物流・交流が活発になり、西部開拓時代が到来した。広大な西部では放牧が盛んに行われるようになった。牛を追いかけて生活するカウボーイは西部を象徴するものとなり、テキサスから国土を縦断して鉄道駅まで牛を追うロングドライブといった生活方式も生まれた。農業は、少ない人口で効率よく生産するため機械化が進み、大規模農業をすることができた。鉄道・道路網の拡大によって西部との一体化が進み、国内市場の拡大は工業産業を飛躍的に高めた。しかし法秩序が確立されていなかった西部では、ギャングや盗賊によって治安が悪化し、これを防ぐために保安官が登場した。

太平洋に達したアメリカの領土だが、1868年に北部アラスカをロシア帝国から安値で購入した。西部の人口はさらに増加し、急速に生活圏を奪われたインディアンは、1860年代にから1870年代にかけて、各部族による一斉蜂起を行った。これがインディアン戦争であり、米軍との間で20年以上争い続けた。結局、蜂起は次々に鎮圧されてゆき、ほとんどは居住区へ移されて部族のコミュニティも壊滅、人口も減少していった。掃討作戦も最終段階に入っていき、1890年にフロンティアの消滅が宣言された。

帝国主義時代 (1890-1918)
西部開拓時代の終焉によって、アメリカ人は更なるフロンティアを海外へ求め、「外に目を向けなければならない」という意識が起こった。1889年にパン・アメリカ会議が開催され、この力がアメリカの中南米進出を促した。とはいえ、モンロー主義に基づくアメリカ合衆国の伝統的な外交政策は引き続き重視されていたため、植民地獲得については消極的であり、もっぱら経済的進出を狙いとしていた。

アメリカ人はこぞって太平洋上の島々へ移住していった。1898年にハワイ王国をなし崩しに併合、領土を太平洋上まで拡大した。さらに同年、スペイン領キューバの反スペイン暴動に便乗し、軍船「メイン号」爆発事件を契機として、スペインとの間で米西戦争を起こした。この開戦には、当時普及していた新聞が大きな役割を果たした。すなわち、米国民の反スペイン感情を煽動する報道を繰り返し行った。これは新聞によって煽動された大衆が戦争を要求した最初の例であり、米国政府はこの情報戦略を積極的に利用し、後の戦争のほとんどに活用された。

米西戦争に勝利すると、中米の多くの国からスペイン勢力を駆逐して経済植民地とし、プエルトリコやフィリピン、グアム島などを領有した。さらに、西欧列強と日本によって中国分割が進もうとしているときに、1899年と1900年に清の門戸開放・機会平等・領土保全の三原則を提唱し、中国市場への進出を狙った。また、1905年に日露戦争の調停役を申し出るなど、国際的な立場向上を目指した。

一方、日露戦争に日本が勝利を収めたことから、西欧諸国はアジア人に対する恐怖を抱き、それまで大量の移民を輩出する中国人に向けられた黄禍論の矛先が日本に向けられたが、米国も同様であり、「オレンジ計画」と呼ばれる対日戦争計画を進めることになる。また、日本は戦後にロシアと和解、イギリスやフランスと関係強化に乗り出したことから、利権を侵されることを恐れた米国は日本と対立し、一時は西欧メディアが開戦必至と報じるほどに緊張が高まった。同時に、ドイツ、イギリス、メキシコとの戦争計画も持っており、周辺の大国を潜在的な敵国と判断して外交を行うようになった。

カリブ海地域を勢力圏にするために、カリブ海政策を推し進め、これらの地域で反乱などが起こるたびに武力干渉した。また、国内東西物流の安定を目的としたシーレーンの確保を目的に、パナマ運河建設権を買収し、2万人以上の死者と長期間の工事を経て、果ては工兵まで投入して完成させた。さらにパナマから運河地帯の永久租借権を獲得した。

またこのころ、石油や電力を中心とした第二次産業革命が起こり、豊富な石油資源を持ったアメリカの工業力は英国を追い抜いて世界一となった。そして強力な企業連合体や独占体が成長し、エクセル、カーネギー、モルガン、ロックフェラーは一代で巨大企業にのし上がり、巨万の富を得た。その後のアメリカ経済は彼ら財閥によって動かされることとなる。

19世紀後半からヨーロッパで人口が急増し、食糧難が頻発した。このため新天地アメリカを目指して多くの移民が発生した。1880年代からは南欧や東欧からの移民が増加し、彼らは都市部で未熟練労働者として働いたため、低所得者として都市中心部でスラム街を形成した。彼ら新移民はカトリック・正教会やユダヤ教信者であったため、それ以前からの旧移民との間で偏見と摩擦が起こり、しばしば抗争に発展した。こういった新移民にフォード・モーターが技術・言語教育を施し、大量生産方式に組み入れていった。また、清や日本からも移民が発生した。急増した日本移民は低所得労働者として都市各地で活動したため、人種差別感情に基づいた、彼らに対する排斥運動が起こった。

2009年02月03日

明智氏(あけちし)

明智氏(あけちし)は、清和源氏土岐氏の支流氏族。美濃国可児郡明智庄(現在の岐阜県可児市)より発祥。家紋は土岐桔梗。
チング ハムナ タッセル オセア おおやまと クーポ シカゴ バリケード フィロ スプリン スモーカー プロバ サーチドア シュメール スティバル あっぱれ シャコ マリッジ 回転計 モノレール トップア ラテン ブレキ ティブ ピナフ システ そうよう モビール ラテアー チャレン センター フライド ビアフラ フットウ ガニメデ ブルー 大根ダイ トフロント びえい ネック ひみつの扉 ジーパン ジェリ ゼソウ コスモス しだれ梅 ひのみ レッジ スリラ トラウ

摂津源氏の流れを汲む土岐氏の一族で、南北朝時代の美濃国守護土岐頼貞(土岐氏としての美濃国守護初代)の九男であった土岐九郎頼基の子・明地彦九郎頼重の後裔とされる。その事跡については詳らかではないが、代々可児郡の明智城に拠ったとされており、戦国時代には明智光秀が出たことで著名となる。光秀は越前の朝倉氏に仕えたのち、尾張の織田信長の家臣となる。光秀は信長の統一事業において活躍し、信長と京都の足利将軍家を仲介する。1582年には本能寺の変で信長を討ち、山崎の戦いにおいて敗死した。

明智光秀以前の明智氏の系譜については諸説あるが、江戸時代に沼田藩主となった土岐家は明智氏の出自であるとされ、同家に伝来のいわゆる「土岐文書」は、光秀以前の明智氏の動向を知る上で不可欠な史料となっている。この沼田家譜においても、明智氏の祖は土岐頼貞の九男頼基で、その子・頼重が初めて明智氏を名乗ったとされている。家紋は、水色で彩色された土岐桔梗紋。

今日、明智姓を名乗る一族はほとんどいないが、沼田土岐家をはじめ荒深家など、広い意味での明智氏は今日においても数多く存在する。光秀に限っていえば、娘・玉子(細川ガラシャ)が細川忠興に嫁しその血筋が今日まで続いている。このほか、江戸町年寄を務めた喜多村弥平兵衛は光秀の末子ともいわれている。このほか、庶子の系統で明智姓(以前は明田姓)を名乗る一族も存在する。

土佐藩の郷士で、幕末に活躍した坂本龍馬の坂本家は桔梗紋を用いており、明智氏の一族で明智秀満の末裔であると、坂本家(才谷家)には伝えられている[1] 。

アイフルのCMソングを歌った歌手・明智ハナエリカも末裔のひとりと言われる。

源頼光 八代略 土岐頼貞 土岐頼基 明智頼重 五代略

光継 光慶 筒井定頼 南国梵桂? 喜多村保之 玉子

木田氏流明智氏
また上記の明智氏とは別に、清和源氏満政流八島氏の一族であった木田重国の玄孫・光行(明智太郎)に始まる明智氏も存在した(『尊卑分脈』)。

系譜
     源満政
      ┃
    忠重
      ┃
    定宗
      ┃
    重宗
     ┣━━━┳━━━┓
    重実 重長 重時
       ┃
木田重国
       ┃
     重知
       ┃
重用
       ┣━━━┳━━━┓
国用 重光 性圓
       ┃
明智光行
       ┃
光房(明智二郎)
       ┃
光元(太郎)
       ┃
光高(太郎)

2009年01月20日

融通性に関してはフィルムがデジタル

現在ではまだ、融通性に関してはフィルムがデジタルに勝ると言える。露出寛容度とゴミ・埃に対しての比較を挙げる。

露出寛容度は、露出過多または露出不足のネガから良い画像を得る度合いのことである。デジタル画像ではわずかでも露出過多になると、ハイライトが飛んでしまう。露出不足では陰影の細部が失われがちである。しかし、フィルム、特にネガフィルムであれば、少々露出過多ないし露出不足のフィルムを使っても、正常の範囲内と言える画像が得られる。

結像面に乗った塵は、撮影者につきまとう問題である。デジタルカメラのセンサーは固定であり、デジタル一眼レフでは塵を除くのが困難である。ただし、一部のデジタルカメラにはイメージセンサーの塵を検知しセンサー上のゴミ・埃をある程度無視する機構が付いている。フィルムカメラでは画像ごとにフィルムを交換するので、塵に対処するのは容易である。その代わり、フィルムの現像工程以降でゴミ・埃が混入する危険が存在するが、いずれも正しい手順で清潔に扱えばほとんど問題は起きない。

利便性
利便性はデジタルカメラが普及した要因の一つである。フィルムカメラでは一連のフィルムを撮影した上で現像しなければならない。そして現像を終えて初めて写真を見ることができる。他方、ほとんどのデジタルカメラは液晶ディスプレイを備えており、撮った直後に写真を見ることができる。この機能を用いれば、不要な写真の削除が可能である。

デジタルカメラの画像はパソコンで加工することが容易である。多くのデジタルカメラは画像を、センサーからの出力を画像に変換せずそのまま保存するRAWフォーマットで保存することができる。適当なソフトウェアと組み合わせれば、最終的な画像に「現像」する前に、撮った写真のパラメータ(シャープネスなど)を調整することができる。記録された画像自体を加工したり書き換えるという選択肢も存在する。

フィルムもスキャニングという工程を経てデジタル化できる。つまり、銀塩写真をデジタル写真に加工することができる。

経済性
2つのフォーマットにおける経済的優越性は撮影のスタイルによって大きく変化するので、一概にどちらがより経済的だとは言えない。デジタルカメラは概して、似たカテゴリーのフィルムカメラより高価である。これは、撮影自体と画像の短期的な保存にほとんど全くコストが掛からないという事態で相殺され得る。だが、デジタル写真にもランニングコストはある。長期的に多数の画像を保存するなら、記録メディアなどに関する費用は甚大である。デジタルカメラにフィルムは不要だが、画像を記録するSDメモリーカードやメモリースティックなどを必要とする。それらは限られた寿命しかない。そして、デジタル画像を保存する機具を用意しなければならない。プリントが欲しいなら、自分で印刷するか業者に依頼しなければならない。さらに、デジタルカメラはバッテリーを使う。バッテリーは使うごとに劣化するものであり、充電式であっても、定期的に買い替えるものである。

他方、フィルム写真ではフィルムの取得と画像処理(プリントなど)にコストが掛かり続ける。フィルムは撮影直後に画像を見ることができないので、最終的な写真を知ることなく撮影した全てのフィルムを現像処理するのが通例である。写真の出来に応じて現像するか否かを、コマごとに決めることはできない。機材の価格については、製造撤退や機種の生産整理などが進めば、デジタルカメラより相対的に高価になる可能性はあるが、中古市場での流通量も多く、一概には言えない。また、多くのフィルムカメラもバッテリーを使い、程度の差はあれデジタル同様の消耗品出費は避けられない。

保存性
フィルムが作るのは一次画像であり、これは撮影レンズを通った情報こそを含んでいる。オルソクロマチックのように特定の周波数領域に限られた感度またはパンクロマチックの幅広い感度といった違いはあっても、色(波長)によって対象を捉える点は同様である。現像方法の違いにより最終的なネガやポジに差は出るが、現像が終れば画像はほとんど変化しない。理想的な状態で処理・保存されたフィルムは実質的に100年以上変わらず性能を発揮する。プラチナの化合物によって発色するプリントは基本的にベースの寿命に制限されるのみであり、数百年ほどは持つ。高い保存性を欲するならば調色が必須であるという因襲があった。調色されたプリントの保存性は高い。しかし現在では、調色せずとも保存性を高める薬品が販売されている。

ナイフ ダイア レフト レター ブライ マル ドポト フットランプ テグス パーツ なんがい トーム かにた ナツメ スモン ピンクソーダ シソーラス ジッポ リキュール ジープニー インター レコー ブート スパン コマツナギ トップバ ジーンチ 炎神 オピエー かさだか うばゆり キャンセル モスキ メトロ フォーゼ クラウト キール ばんかん アンダ シンパ せいこ 鶏頭人気 スコッ パレード オーメン トイ人 テゴル ティコア コムタン ヤハウェ

2007年時点で、コンピュータを中心としたデジタル媒体が登場してから50年程しか経っていないので、デジタル写真の保存性はフィルムほどには分かっていない。しかし、保存に関して乗り越えなければならない観点が少なくとも3つ存在する。記録媒体の物理的耐久性、記録媒体の将来的な可読性、保存に使ったファイルフォーマットの将来的な可読性である。

多くのデジタル媒体は長期的にデータを保管する能力はない。例えば、磁気ディスクと磁気テープは20年でデータを失う。フラッシュメモリーカードはそれよりやや短い。高品位の光学メディア(光磁気ディスク = MOなど)はそれらより耐久性のある記録媒体だろう。記録媒体の将来の可読性も重要である。記録媒体が長期間データを保持できたとしても、デジタル技術のライフスパンは短いので、メディアを読み取るドライブがなくなることがある。 例えば5.25インチフロッピーディスク(FD)は1976年に初めて発売されたものであるが、それを読めるドライブは、30年も経たない1990年代後半には既に珍品となっている。後継の3.5インチFDもドライブを装備するパソコンは減少している。Zipは1994年の発売開始後数年で売れ行きが落ち、2007年時点ではメディア・ドライブとも入手困難になっている。

データをデコードできるソフトウェアの存続も関係する。例えば現代のデジタルカメラは画像をJPEGフォーマットで保存するが、このフォーマットは十数年前に登場した(国際標準化機構(ISO)・国際電気標準会議(IEC)で規格化されたのが1994年)。現在、厖大な数のJPEG画像が生み出されているが、100年後もJPEGフォーマットを読むことができるのだろうか。また、複数が並立しいわゆる互換性に乏しい、RAWフォーマットの将来も不確定である。これらのフォーマットの一部は暗号化されたデータまたは特許で保護された専用データが含まれているが、突然メーカーがフォーマットを放棄する可能性がある。カメラメーカーがRAWフォーマットの情報を開示しないならば、この状況は今後も続く。

デジタルにおけるこれらの障害にも対策がある。例えば、オープンでよく知られたファイルフォーマットを選ぶことによって、ソフトウェアがそのファイルを読解できる将来の可能性が増す。また、将来読めなくなるかサポートされなくなる可能性があるフォーマットでデータを保存する代わりに、品質を低下させることなく新しいメディアにコピーすることが可能である。このことは、デジタルメディアの1つの特徴である。但し、劣化を追って愉しむ文化も、存在する。歴史的写真は、時間の経過による変化をあらわす適度の劣化がなければ、その分不自然であるとも言える。